日本は最終的には、九州勢力・出雲(日本海沿岸)勢力・奈良(近畿)勢力・そして中部(関東も含む?)勢力の四つになった。そして、最後に現在の天皇家に続く奈良勢力が日本を統一した。出雲勢力は臣従の証に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を差し出し、天皇は出雲大社の造営を許した。中部勢力は、臣従の証に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ 草薙剣ともいわれる)を差し出し、天皇は熱田神宮の造営を許した。そして、同族の争いとなった、九州との戦いでは、最終的な和睦が成立せず、九州の父祖系統にあたる統治者を壊滅させ、八咫鏡(やたのかがみ)を奪い取った。そのために、九州には大きな由緒ある神社がなく、また、生臭すぎることなので、邪馬台国を含めて記紀にはあまり記述されないのではないか。出雲・中部・瀬戸内海沿岸辺りは、旧支配階級を残し配下に収める形で、九州は直轄領のような形で、最初の日本の統一の天皇政権が出来上がったのではないだろうか?
都のある奈良盆地には、天皇と宮城という「イマ」の神とそれをお祀りする施設があったので、それ以外の大きな「神社」は、逆に排除された気がする。時代は下るが伊勢神宮も、奈良盆地にはない。
ワカタケルのミコト(獲加多支鹵大王)雄略天皇(21代)の銘文のある鉄剣が、熊本と埼玉で出土している。埼玉の鉄剣には「辛亥年七月」AC471と、年号が記載されている。ということで、5世紀後半には、今の天皇家に続く日本の統治者が、九州から関東までの一帯を統治していたことが、考古学的にもほぼ証明されている。初代の神武がBC100〜AC0あたりだとすると、それを21代で割ると、平均の在位期間が22〜27年、おおむね親から子へと地位が継承されていると考えると常識的な数字、古事記の歴代天皇がまるで空想の産物である、という決めつけもいかがなものかと思う。
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