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2024年11月22日

息子 桂優々の師匠 桂雀々さんがなくなる

昨日に続いて、今日も訃報である。息子である桂優々の師匠、桂雀々さんが、おなくなりになられた。享年64歳とのこと、若い。昨日の朝、内緒なんやけど、と、その知らせを息子から聞いた。お葬式は?香典は?、と聞くと、家族葬なので不要、後日ちゃんと「お別れの会」しやはることになるやろうからその時に、と、短い電話は切れた。

スポニチ>桂雀々さん急死 早すぎる64歳 波瀾万丈の生きざまを笑いに「上方落語の爆笑王」TVやドラマでも活躍

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最後にお見かけしたのはいつやったやろう?と自分のfacebookを繰る。一昨年、師匠にしては小さな小屋である動楽亭で、優々のために「一門会」と称して会を催して下さった時、見に行ったのが最後やった。

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 師匠と一緒の写真はなかったかなーと、探してみたがなかった。息子が弟子入りする時から既に有名人だったので、肖像権?みたいなのもおありやろうし、すぐにSASに載せてしまいたい私みたいな人間は、遠慮させて頂いた方がエエかなーって思ってた。一度くらいはご一緒のお写真を撮って頂いといたら良かったなー、と、今になって思う。

 デジタルデータは便利だ。この写真は、2011(H23)4月24日20:35、桂優々が、年季明けをするという時に、大阪に招いて頂いた宴会の終わりの時の記念写真の一枚。

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 色んな事を思い出すが、やっぱり、一番最初にお出会いした時のことが強く印象に残っている。もう弟子入りすることは決まっていたのだが、とりあえず、親御さんから師匠に弟子入りをお願いするというセレモニー?が、必要とのことで、大阪のご自宅へ伺った。向こうからすれば、家出同様の人間を弟子入りさせてしまって、後で家庭問題のとばっちり受けることのないように、っていう配慮もあったんやろうと思う。「10年はチャンと食わしてあげる。修行しながら私なり私の知合いの落語家なりの前座とかして、とりあえず、自分ひとりぐらいの食い扶持は何とかなるし、そのようにしてあげる。しかし、その10年で、自分でお客さんを作り、自分が主催する落語会で人が集まるように頑張ってもらわんと。それから先は、私の仕事やなく、あなたの息子さんの仕事や。」って言われたのが、そういうもんか、と腑に落ちて、強く印象に残っている。3〜40分くらい色んなお話を聞いて、最後に「息子が決めたことですので、よろしくお願いします。」と夫婦二人で頭を下げて、師匠宅を辞した。その丸二年後がこの写真という事になる。それから13年の歳月が流れた。そして、今回、本当にもう助けて頂くことが出来なくなってしまった。

 息子は、大学の落研にいた。学園祭の時、2回くらいその落語を聞いている。それは、落語というより、落語の本の朗読を聞いているようで一つも笑えなかった。こんなんが、ホンマに落語家になろうとしてる、って聞いた時は、ウソやろう、と思った。しかし、本気らしいので、マー、やってみてあかなんだらまた先の事考えたらええわ、もう大人なんやし、と、自分の心にフンギリを付けた。入門して半年後に、師匠から「初舞台に上げるので、見に来てやってください。」と連絡があった。まだまだ未熟で危なっかしい落語だが、それなりに落語の体をなしていて、驚いた。大学で4年やっても全然やったのに、本職が半年稽古をつけると、それなりになるんやなー、と。

 そんなに何度もお会いしたことはないのだが、色んな事が走馬灯のように巡っている。しかし、師匠とはいえ、年下の人がなくなるのは、色んな意味でショックだ。

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posted by ほんだ at 12:00| 滋賀 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 親バカ桂優々(落語家)fan club | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年11月21日

谷川俊太郎さんがなくなる。思い出。

若い頃、小説などはそれなりに親しんだものだが、文学のジャンルでも、詩とか歌にはほとんど造詣がない。でも、谷川俊太郎さんがなくなられて、それが新聞の一面に載るぐらいの人なんやという事は、なんとなくわかる感じがする。

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一番最初の谷川俊太郎さんとの出会いは、調べてみたら1975、新建築の8月号。18,高専の4年の時、新建築の住宅特集で傾斜した地面の大広間がある写真を見たときになる。篠原一男という建築家が建てた別荘で当時は「軽井沢の住宅」というクレジットだったように記憶している。建築を本格的に勉強し始めた頃で「コンナンも建築なんやなー。」と自分の建築という概念がまた一つ壊された感じがしたのを覚えている。それが、谷川俊太郎さんの軽井沢の別荘であることを知ったのは、いつだったか記憶が定かでない。ただ、建築の鬼才と、詩人という鬼才がタッグを組むと、こんな建物が出来るんやなー、と、妙に腑に落ちた感じがした。ネットで、この広間が、8帖6つの48帖大の大きな部屋であったことは、50年近くたって初めて気づいた。
TOTO通信>(元)谷川さんの住宅
R100tokyo>遠山正道×鈴木芳雄 連載「今日もアートの話をしよう」vol.26 北軽井沢「谷川さんの住宅」

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二度目の谷川俊太郎さんとの記憶は、子どもの教科書だ。「いるかいるか いないかいるか いるいるいるか・・・・」っていう言葉遊びのような詩が教科書に載ってるのを見付けた時だ。それまでにも谷川俊太郎さんのこと知ってた気がする。その時の感想は、面白いもんが教科書に載るようになったんやなー、という感じ。それは、子どもの教科書に赤い鳥の「翼を下さい」を見付けた時と似たような印象でもあった。雑誌やメディアで、同時代的に受容してた音楽や文学が、年が経ると教科書に載ってしまうんやなー、と。
アートブレス>ポートフォリオ>世永 佳子イラストレーター

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特に詩に興味があるわけでもないので、谷川俊太郎さんの本は持っていなかった。ViWaびわという宿屋を始めて、絵本も何冊か置いた方がええなー、と思うようになった。そんな時期、京都で「和田誠回顧展」があり、そこに、和田誠と谷川俊太郎のコラボの絵本があったのでそれを買った。それが三度目の邂逅ということか。

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そン中の一冊、「いろはうた」は、子どもの絵本やなかった。極端に少ない文字数で韻を踏みながらも、谷川俊太郎さん、刺激的やなー、と、改めて驚かされた。

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posted by ほんだ at 09:12| 滋賀 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 言葉や方言はおもしろい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする