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2019年08月19日

神武東征はあった(私の日本の古代史観01)

(BC1〜AC2)神武東征はあったと思う。但しそれは、九州の王家が西日本に勢力を広げるという形のものではなく、弥生の九州の鉄器文化の発達による水田築造・河川の整備などの、優れた農業土木事業の技術者集団の移動、というようなものではなかったか?古事記の神武東征では、九州瀬戸内の数か所で寄り道して大阪湾に至ると記述されてるが大阪までは戦争の記述はない(らしい)。大阪湾に至るまでは、その技術集団の技術移転が歓迎され、そこそこの事業が完成すると新天地を求めて西へ向かった。しかし、大阪・大和平野には、すでに「クニ」らしきものが形成されていて、それまで通りにはいかなかった。ということではないか。そして、神武東征によって、農業生産は効率的になり、鉄器耕作文化圏が、九州から近畿(濃尾平野まで含む?)へ広がった。しかし、「クニ」はそれぞれの地域に部族国家が点在するという状況だったのではないだろうか。

★BC1神武東征説 河内潟の変遷とその一時期が神武東征の大阪敗退の地理的記述が符合する件。
 長浜浩明著・日本の誕生その本の読後ブログ

ただ、熊野から奈良盆地への侵入というのがどうしても解せない。それならと、もう一回りして三重県あたりの「クニ」と共同して、奈良盆地にあった「クニ」の統治者を倒し、新たな「クニ」を打ち立てたのではないのだろうか。それが、神武は太陽に向かって戦ったためと失敗したと考え、反対に東側から戦ったという古事記の逸話になっているのではないのだろうか。そしてその「記憶」の論功行賞が、伊勢神宮なのではないだろうか。
その後、九州から来た技術者集団(神武)が、近隣の部族と婚姻などの縁戚関係を構築しながら、明日香のあたりに「クニ」の基盤を整えていったのではないだろうか。
そして、農業の余剰生産が増えてくると、だんだんと各地で「クニ」がそれぞれに大きくなっていったのだろうと思う。

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posted by ほんだ at 10:36| 滋賀 ☁| Comment(0) | 歴史に興味が | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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