こうやって見ると「金印」の頃の北部九州が、いくつかの「クニ」に分かれていたというのが地勢状「なるほどな」と思われる感じもします。
また、奈良や京都の盆地が意外と小さいことがわかります。
後期弥生時代から古墳時代にかけての「国力」が、農地の面積に比例すると考えると、奈良盆地にあった政権が大阪平野と近江を開拓?併合?して大きくなって、それでやっと、北部九州(福岡・佐賀・熊本)の平野部分の面積に比肩するくらいの大きさです。
それに比べると、濃尾平野の広さは一体でかつ広い。生産性高そうな耕地の広がりを持つ濃尾平野が、北部九州や近畿に比べて日本の黎明期の主役の役どころがないのは何でだろう、と思いました。濃尾平野は一宮以南が海でそんなに広くないとのご指摘も頂きましたが。
◎いくばくかの本や映像情報の浅学な知識、それに神社仏閣巡りなどが私の中で混ざり合ったもので、孫引きみたいなのも混ざってます。というか、その方が多い。お盆のお休みの間に今までモヤモヤしてた考えをまとめて文章にしてみました。
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