海津内湖の丸小船船溜まり。山を見ると大きな木がほとんどないのがわかる。岸には薪も見える。
丸小船に薪を積み込む。琵琶湖の水運を使って、薪が「商品」として流通していたのがわかる。
最近はクマも出る。シカやサルを見かけるのは日常茶飯事だ。昔の山は「自然」だった、ってウソだ。今の方が「自然」に近づいてるから動物も生息するようになったんやと思う。
私の住んでる琵琶湖岸の知内という集落は、集落から離れたところに、区有の薪取り山をもっている。30年ほど前までは「サカツクリ」(境作り・音で最初聞いた時は密造酒でも作るんかと思った)と言って、年に一度その山に登り、その土地の周囲をぐるりと回り、境界線上に踏み分け道を作りかつ、それを区民の財産として認識を共有するという行事もあったが、いつからかそれもなくなった。
海津の古写真では、山はみんなハゲ山で、みんな、柴や薪をとりに、日常的に山へ登ってたんやろうなー、というのがうかがる。そんな薪山のなごりが、マキノの里山によくある「やまおやじ」だ。地名の「牧野」は、元々は「薪野」という意味やったんちゃうかなー、とも思う。
以前、朽木の老齢の林業者さんがクヌギなどの雑木を「かなぎ」と呼んでいて不思議に思えた。当時私は商品として建築用材になる杉桧の方が「金木」なんじゃないか、何故 雑木が「金木」なんやろうと、思った。で、思いを巡らした。高島市内でガスや石油商を営んでおられる会社は、かって朽木地区のマキや炭を大量に扱われていたらしい。ひと昔以前は、雑木林の方が現金収入になったのではないだろうか?萌芽更新(蘖・ひこばえ)で5〜7年毎に再生産される木の畑、それが高島の山の姿だっただろう。そしてそれが京都近江のエネルギー源を担っていた?その木の畑の形が今も「やまおやじ」として残っている。以前は地域内で生産循環していたエネルギーを、今や地球の反対側から輸入している、そして今の生活を維持している。今後もうまいこと続くんやろか。
そういう雑木林が、今、放擲されたり、荒れ果てた別荘分譲地となったり、杉林になったりしている。人が入らなくなったそんな場所は、動物が跋扈し人里へも侵入してくる。
いにしえから続き江戸期には多分完成し、昭和30年くらいまで続いていた、高島の、人の山との安定した付き合い方を放擲した代償は大きいんとちゃうかなー、と思う。ただ、以前のようには戻れない。今後、どうやって山と付き合っていくんやろう。
そうそう、「やまおやじ」を通じて、東京の武蔵野の雑木林も、明治の文豪の題材としてしか知らなかったのだが、実は江戸のエネルギーを支えていた薪炭作り用の木の畑やったんやろうな、と思うようになった。「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・・」という生活は、遠い昔のように感じられるが、ほんの50年前までは、いにしえからずっと続けられていたんやろなー、とも思う。
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