昨日、
安曇川流域・森と家づくりの会が主催するイベントに行きました。
メインは、
TV番組「建もの探訪」でおなじみの
渡辺篤史さんの講演会です。
なんといっても第一声、響きのいい声に驚かされました。
TVと同じような軽妙な語り口で楽しく聞かせていただきましたが、
一般の予備知識の多くない人に向けて、建築の良さや美しさという、
相当抽象的な話題について、語ると言うことの難しさ(限界)を感じました。
ただ私は、渡辺篤史さんという見ることのプロフェッショナルが、
現代建築について、開高健さんと同じようなことを
痛切に感じておられるのではないかと思いました。
以下は、1977年に
開高健さんがブラジル・アマゾンを釣り紀行した
オーパという作品の一節です。
・・・・こうして
ブラジリアはそこに、そのまま、おかれている。
今日も輝いている。まるで昨日生まれたばかりのように輝いている。
構造物たちはまだ細根も、地下茎も、気根も生やしていない。
しかし、建築物も人と同じように年齢を知らずにはいられないし、
体のあちらこちらにそれを分泌せずにはいられないものである。
これまでの木造建築や石造建築は
歳月や疲労がしるしづけられると同時に成熟の気品や威厳を身につけるすべを知っていて、
不断に育ちつづけて数世紀、十数世紀を生きぬいてきた。
しかし、
現代建築というものはこれまで私が諸国で見聞をしたかぎりでは、
歳月と添寝することができないのである。
デザインの流行が変わるから“時代遅れ”になってそうなるのではなく、
どうやら、もともとそんな体質や気質に生まれついていないのである。らしいのである。
どの傑作もちょっと歳月がたつとたちまち醜怪、卑小な不具者となってしまう。
ある年齢で成熟がとまってしまった美青年みたいなところがある。
美貌を保つためには自殺するしかない、
ある種の早熟な不具の美少女みたいなところがある。
一つとして例外なくそうであったといいたくなるほどである。
ニーマイヤーの傑作群は
年齢を知らずにここまでおかれたけれど、
いずれ遅かれ早かれ年齢を知りだしたとき、心ある人の眼から見れば、
いたましい不具者としか映らないようなものとなってしまうのではあるまいか。
過去をなくして生みおとされ、未来を知るすべを知らず、
ただ現在にありつづける―いつまでかは誰にもわからない
けれど―壮大、純潔だけれどついにはそういう存在でしかないのではないか。
人びとにできることといえば、
せいぜい毎日、精魂をこめて磨いてやることぐらいではないだろうか。・・・・・